~ハンガリーレポート②~

音楽総監督誕生!

 

2007年4月…ハンガリー東部・ソルノク市から車で1時間半も南東に行くと、そこはもう隣国ルーマニアだ。国境を越える前から続いていた菜の花の美しい色はここルーマニアに入っても同じ色鮮やかな黄色で、そして咲き乱れる花々はバスの車窓から何と遥か地平線までもずっとずっと大地をまるで絨毯(じゅうたん)のように染めている。とても日本ではお目にかかれない広大な光景…その景色に見とれながら、私はこれから3日間のルーマニアでの演奏旅行に胸が踊る思いだった。“ソルノク市・音楽総監督”として…!

 

 レポート①でお知らせしたとおりソルノク市の芸術監督就任の話は、2006年1月のソルノク響演奏会成功を機に当時の市長からの強い要請によってソルノク市での私の音楽芸術活動を約束するものとして提供されるものであったが、その後のハンガリー国内での国政選挙、並びにソルノク市長選挙にからむ政治的・経済的な裏工作や利害の絡むやり取りの中で、半ば頓挫した形のままでいた。遅々として進まぬ状況に焦ったり落胆させられたりもしていたのだが、そんな市の社会状況を省みることなくオーケストラは今後の演奏活動に関して独自のポストを用意して迎えてくれることを約束してくれていたし、また新たにオーケストラをサポートする多くの人々が私を招き入れるための資金調達を行うべく『オーケストラ基金(ファウンデーション)』を設立して備えてくれるという本当に願ってもない状況が生まれて、つかの間の幸福感を味わいながら2006年の暮れも押し迫った頃にソルノク市に戻ったのであった。

 

暮れのチャリティコンサート

2005年の暮れに引き続き、またも2006年の歳の瀬と2007年の年明けをハンガリーで過ごすことになったのは、その年末年始に2つのコンサートを指揮する予定になっていたからだ。そのひとつがチャリティコンサート。近年異常気象がヨーロッパ中でも続いていたが、ことルーマニアにおいては至る所で大きな洪水に人々が見舞われて多くの被害が出たという。その中のトランシルヴァニア地方…ルーマニアの西部地方で元々のハンガリー領、ここでは今も多くのハンガリー人同胞が住んでいる…ではデーヴァという村で起こった洪水のために親を亡くした多くの孤児が生まれ、以前から教会やチャリティ活動家たちの手で救済活動が行われたという。このチャリティコンサートでは、そうした洪水孤児たちのための施設を自ら立ち上げて救済を行っている人たちへの支援金・義援金を集める目的で行われるのだ。

 

実はこのコンサートが開かれるのにはもうひとつの大きな経緯がある。私がソルノクでの公的活動を持ち掛けられるきっかけとなった2006年1月に開かれたソルノク響創立40周年記念演奏会ではショパン作曲のピアノ協奏曲第1番を演奏し、この時のソリストに招かれたのが藤井亜紀さん…日本では既に何度も協奏曲での共演経験があり、携わる合唱団のピアニストを務めてもらっている私の最も信頼する演奏家の一人なのだが、彼女はそれ以前に初めてソルノク響と共演した際にこのオーケストラ団員からの圧倒的な支持を得ており、オケ側の方からの再招聘の強い希望が出されていたのだ。またこの40周年記念演奏会では山形県のアマチュアオーケストラ・酒田フィルとの合同演奏が予定されており、偶然にも彼女のご尊父が酒田市のご出身という縁もあって、まさに巡り合わせでソリストに選ばれていたのだ。(ソルノク響は酒田市及び隣接する遊佐町(ソルノク市と姉妹提携を結んでいる)との繋がりが25年に渡ってあり、そこを本拠地とする酒田フィルともずっと音楽交流が続いていた)。チャリティコンサートの開催のアイデアは、その藤井さんからの一言がきっかけとなっている…。 (画像は40周年記念合同演奏会の模様)

 

決められた時間に決められた場所でリハを行うオケと違い、ピアニストにとってはピアノを思う存分さらえる場所こそがリハーサル会場だ。この40周年記念演奏会の際には現在オケの本拠地であるアバ・ノヴァーク文化センターもまだ建設される遥か前で存在せず、旧コンサート会場以外にはなかなかいいピアノもなく、個人練習のため藤井さんはオケのインスペクターの車で毎回ソルノクから車で20分ほど離れた隣町のテュロクセントミクローシュにまで通い、そこの音楽学校のピアノを借りてさらっていたそうだ。ここはオケのメンバーの多くが教授や講師を務める音楽学校でもあり、彼女はそこの人々から大変に温かいもてなしを受け、この時の感謝の意味を込めて「ぜひまたここで、今度は普段ピアノコンサートに足を運ばないような人々や子供たちのために無料の“チャリティコンサート”を開きたい」と何度も私にその希望を伝えてくれていた。後にアバ・ノヴァーク文化センターが完成する前にその話をオケのメンバーやオケの『オーケストラ基金』を設立したサポーターの人々に私からこの件を告げたところ、話がどんどん膨らんでいき、チャリティコンサートを開くのならばぜひ一緒にオーケストラとの共演コンサートを行おうという話がまず浮上し、そのコンサートは3月、そしてその前にオケのみの小さなコンサートを暮れに開こうという話になり、よって私はそのコンサートのためにこうして暮れにソルノクに戻ってきたのだ。ところがその時にはそこで起こりうるまさに思いもかけない展開を知る由もなかった!

 

一転、大きな追い風が…!

そのオーケストラのみの小コンサート…ソルノクの中心からちょっと外れた静かな住宅街の中にある美しいギリシャ・カトリック教会でコンサートは開かれたのであるが、これがここで開かれることになったのには、私が知らない大きな理由があった! ルーマニアのデーヴァ地区の子供たちの救済には同じ地区のチャバ神父という方が私財を投げ打って支援していたそうなのだが、これに賛同して義援活動を行っていたのがここの教会のヤツコ神父さんであり、この教会建設の立役者でありオケ基金の有力なメンバーであるヴァルガさんだった。そしてもう一人…この義援活動を積極的に推進していたのが、実は誰あろう新しいソルノク市長・サライ氏であった。このコンサートはもちろん慈善事業として義援金を集めるのが目的である。しかしこのヤツコ神父とヴァルガさんのもうひとつの目論見(もくろみ)…それは私とソルノク交響楽団の演奏をぜひこのサライ市長に聴いてもらうことにあったのだ! この教会のある場所はサライ市長の票田であり、市長とヤツコ神父は古くからの友人、ヴァルガさんもサライ氏が市長となる前から共に慈善活動していた仲間で、普段めったにコンサートに足を運ばないような市長も必ず来るだろうからと、この場所をわざわざ選んでくれていたのである。 (画像はギリシャ・カトリック教会)

 

コンサートのプログラムは暮れの教会で行うにふさわしくバロック音楽…バッハの管弦楽組曲第2番(フルートと弦楽オーケストラ)、同じく2つのヴァイオリンのための協奏曲で、それぞれのソロをオケの首席メンバーが独奏演奏しバックをソルノク響が務めるものである。コンサートが始まるのは午後4時から…リハを終えた会場にひとり、ひとりと観客の姿が増える中をサライ市長もやってきたのだが、…入り口で出迎えたオケのインスペクターと私の個人マネージャー・ヴェロニカが何やらずっと立ち話を続けている。約10分くらいだっただろうか? そのたった10分間に驚くべき内容の会話がなされているとは、本番前に想像もつかないことだった!

演奏はスムーズに進行し、そして会場の教会ならではの豊かな響きと雰囲気に包まれて音楽的なインスピレーションもいっぱい生まれ、とてもいい演奏になった。会場は大きな拍手に包まれ、全曲の演奏が終わって何度もステージに呼び戻された。そしてそこで来賓の挨拶としてサライ市長が立錐の余地もなく埋まった会場の観客に向かって力強く挨拶を始めたのだが…!?

会場にほ~っというため息にも似た大きな歓声と直後にそれを上回るくらい大きな拍手が沸き起こった。そしてその反応に気をよくした市長は、私の元に歩み寄って握手を求めてきた。わけが分からないながらも作り笑顔で応対してがっちりと握手を交わしたが、その力の強いこと強いこと! 後で聞いた話によるとサライ市長は学生時代にバスケットボールの選手として鳴らしたスポーツマンで、その体躯も私よりも一回り以上も大きい! その握手する姿を見て観客はもとよりオケマンたちも皆がにこやかに歓声を上げている。一体何が起こったのだ???

 

終演後しつこく説明を求める私に、マネージャーのヴェロニカは顔を紅潮させながら話してくれた。「…開演前の10分間、私たちはとても重要な話をしていたの。市長選で保革が逆転した後に、前政権幹部から新幹部への引継ぎが行われたんだけれど、マサヒロの市芸術監督の就任に当たってはギャランティが年間2400万フォリント以上もかかると誤った情報が(もしかしたら故意に?)伝えられ、市長はその額では市として予算をまかなえないと申し送り事項から即座にはずしていたんですって。今日たまたまその話になって、それがとんでもない誤解だって説明をした後、今回のチャリティのためのあなたの滞在や演奏は市予算とは関係なく、オケ独自の基金のサポートによって成り立っているって説明したの。そしたら、こんな大切なチャリティコンサートを行っているのに市としてそれをバックアップしないのはおかしいってサライが言い出したのよ。」これにはびっくりだった。しかもこの演奏に触れて大きな感銘を覚えたとして、終演後に聴衆に向かって話したことは、この素晴らしい演奏を行ったオーケストラに自分は市長として今後バックアップしていくことを約束し、ここにいるイザキ氏をマエストロとして市に迎え入れたいとの宣言をしたのだった。演奏会の興奮さめやらない中の市長の直の宣言に当然皆は歓声を上げるわけだし、市長もそれに喜んで私と固い握手を交わすわけである。悲しいかな、当人である私だけがそれを直にハンガリー語で分からなかったのだ!!(苦笑)

 

市長は前の政権(社会党)市長が就任する前の市長でもあり、ちょうど市の行政に関する前政権の予算や利便性について細かく再検討している最中だったそうだ。この公式発言はその演奏会の模様を取材に来ていた地元TVクルーによって撮影されて、1時間後の夕方のニュースにはもう放映されたのだ。終演後の教会の控え室で寛いでいたオケマンたちはその放映を見てさらに歓声を上げ、オーケストラ基金のメンバーたちは半ば涙顔で抱き合って喜び、その立役者であるヤツコ神父とヴァルガさんの大きな腕に私は何度も抱きしめられた! こうした人に支えられる形で私はソルノク市に一歩近づくことが出来、チャリティコンサートも収益が20万フォリントも即集まり、収益と共に大きな大きな成果を挙げたのだった! (画像はヤツコ神父(左)とヴァルガさん(右))

 

プロジェクト開始!

2006年の暮れは興奮のうちに幕を閉じ、2007年を迎えた1/2に、ソルノク響とニューイヤーコンサートを行った。題して「ダンス&マーチ」。以前読売日本交響楽団との演奏会で行ったような舞曲や行進曲を中心とした、肩の凝らない楽しいプログラムばかりを集めた演奏会だ。チャイコフスキーのバレエ音楽やハンガリー舞曲のようなポピュラーなものから、ルロイ・アンダーソンの佳品や「だったん人の踊り」のような交響的なものまでバラエティに富んだ曲目は、とても好評に迎えられて新聞にも大きく取り上げられた。暮れの市長宣言の“追い風”も相まって、会場は満員でチケット入手が困難なくらいだったそうだ。

 

 それから帰国までの数日間は大忙しだった。片道約7時間かかるルーマニア・デーヴァ地区に視察に行ったり、市の文化担当者やアバ・ノヴァーク文化センターの新しい館長となったファルカシハージ氏との会談を行ったりの中で、市長宣言後の事務的な計画の詳細を練るなど帰国までの数日間は行事が目白押しだった。市側からはとりあえずこの一年間をアバ・ノヴァーク文化センターの音楽監督として、私がこのソルノク市の音楽・芸術分野の発展にどう関わっていけるかをいわゆる「テスト・イヤー」の意味で検証して欲しいとの申し出があり、これを快くお引き受けした。テスト・イヤー後には条件を整えた上で、市芸術監督としてのポストを用意するという破格なものだった。一方オケの指揮者としては年間の計画を始め、オケ内をどのような形に発展させていくかを考えなければならず、前レポートでお知らせした「温泉」に入りに行く暇もないくらいだった(笑)。帰国してから早速取り掛かった…音楽監督として今後のオケの活動をどう市の公式活動とリンクしていくかについての意見及びそのコンセプトをまとめた書類はA4用紙にびっしり二十数枚を超えるものになり、それを英訳するだけでも大変な作業になった。

 

3月には再び書類を携えてハンガリーに再渡航、いよいよ音楽監督としての活動が開始されることになり、3月30日、31日のソルノク、及び4月13日からのルーマニア演奏旅行でのチャリティコンサートの指揮である。ここで(話は少々複雑になるが…)この国の情勢とソルノク響の置かれている立場とについて話をしておきたいと思う。ご承知のように元々ハンガリーは社会主義国だった。しかしベルリンの壁崩壊以降この国でも民主化が進み、2004年5月にはとうとうEUにも加盟した。これまでの社会情勢が…特に前にも触れたような旧社会主義時代の街並みが大きく変わるようなブダペストの様相からも、目に見えてどんどん変化しているのが´95年のコンクール以来この国を行き来するようになった日本人の私の目にもはっきりと見て取れたほどだ。しかし、情勢の変化はもっと身近に迫ってくる。例えば以前450円で食べられた『とんかつ定食』が今では『ポークフライ・ディナー』として1800円もする…そんなもんだ。EUに加盟したとはいえ、通貨単位は以前と同じフォリントのまま。それは無理もないこと、隣国オーストリア(音楽の都“ウィーン”が首都)との雇用賃金格差は未だに5倍以上もあると言われている。もっとも最近はユーロ高になり、応じてフォリントと円の両替も随分目減りしてしまったが。

 

ハンガリー政府の政権は四年毎の国政選挙で毎回保革が逆転する不安定さがやっと社会党が安定政権になったのも束の間、社会主義からの脱皮に伴う経済状況悪化に歯止めが利かず、現在ではGDP比8.7%の累積赤字が嵩んでいる。当然文化事業が大幅な予算カットをされるに至り、国立オペラハウスと並んでこれまで独自の演目で観客を楽しませ続けてくれたエルケル劇場(私が2000年ニューイヤーコンサートを指揮した演奏会場)は閉鎖が決定し、オペラハウスも予算が半分にカットされ新演出が軒並み減ってしまった。当然音楽教育の環境図式も大きく変革し、文化省はブダペストにある国立リスト音楽院のみを残して、ジェール、デブレツェン、ミシュコルツ、セゲド、ペーチという大都市にある国立音楽大学の解体を決定した。既存の大学を統合することは昨今の日本でもあったが、解体などとは日本では信じられないことだ。でも、いわく「世界中の若者にはクラッシックよりロックの方がたくさん聴かれている」というのが“オペラハウスに行ったことのない”文化大臣の持論だそうだ…。

 

当然政府が認知するプロフェッショナル・オーケストラの基準も変わってきた。これまでは“国からの助成を得て活動をする団体”だったのが、“独自にスポンサー資金を集められる団体”という見方になり、最近では所属・契約団員数が60人以上で年間公演数α以上を行う団体と制限まで付くようになってきた。これによってそういう見解、基準に満たないブダペストのオーケストラ…例えばこれまで私がよく客演したようなMÁV交響楽団(鉄道会社のオケ)、Telecom交響楽団(以前のMATÁV響、電話会社のオケ)、そして毎年客演しているDUNA響などは助成金カットという存続の危機に現在瀕し、その救済を訴えるコンサートを開いているほどだ。(まるでどこかの国の弱者切り捨てに似ている?) ソルノク響の正団員数は45名だが、私の就任に当たってオケの規模を契約団員も増やして60人体制のオケに変える見解を出したばかりだった。まさしく変革の時期に奇しくも重なったのだった。

 

こうした背景を受けて、市から求められた音楽監督のコンセプションとして私は、ソルノク市の音楽発展に寄与するために、まずオケの変革とその環境周辺の改革からを第一に行いたいことを挙げた。団員の拡充に始まって、多岐に渡るレパートリーの拡充と楽団楽器の充実、定期演奏会回数の増加や演奏会会場の拡充などは真っ先に行いたい項目だ。アバ・ノヴァーク文化センター以外にも県庁ホール、ガレリア(旧シナゴーグ教会)、美術館中庭の屋外スペース、芸術の家の野外ステージ、スポーツセンター…色々視察もしたが、魅力あふれるところがいっぱいあるのだ。オケメンバーが増え、また市内の演奏会場の可能性が増えれば、レパートリーも多岐に渡って選べるし、違う層のお客さんにもアピールできるだろう。市の公式行事や国の記念日などでのコンサートをはじめ、ユースコンサート(青少年のための演奏会)を開いたり、演奏旅行を計画したり、そしてソルノクにあるバルトーク室内合唱団、コダーイ合唱団、ティサ民族舞踊団、軍楽隊などとの共同演奏(コラヴォレーション)を行うことで、市の音楽活動に幅をもたせることも出来る。同時に何か青少年育成の教育プログラムも盛り込みたい…様々なアイデアに思いは膨らむ一方だった。

 

音楽監督から音楽“総”監督へ

さて、3月30日そして31日にはそれぞれデーヴァ孤児救援チャリティコンサート、ソルノク響定期演奏会として2つのコンサートを行った。チャリティではティサ民族舞踊団、及びデュヴュー民族クィンテットとの共同ステージでバルトークの地方色豊かな曲「ルーマニア民族舞曲」を演奏し、デーヴァからは子供たちにも聴きに来てもらった。チャリティに引き続き定期でも藤井亜紀さん、そしてソルノク響との共演も多いファルカシュ・ガーボール君を招いて、初めてアバ・ノヴァークセンターにある2台のピアノの両方を使っての“2台ピアノのコンサート”としてモーツァルトの2台のピアノのための協奏曲やサン=サーンスの動物の謝肉祭などの華やかなプログラムを行った。チャリティとしての話題性が高かったせいや、音楽監督としての初めてのコンサートという触れ込みもあって、会場は超満員の上に地元テレビによる中継も行われた。もちろんニュースとしてハンガリー中に大きく取り上げられ、またネット上でも大きな反響があったそうだ。演奏の出来もよく、まずまずの一歩を踏み出した。(画像は上がデュヴュー民族クィンテットと、下が藤井さん、ガーボールくんとデーヴァの子供たち)

同時にルーマニア行きの準備も行われた。今回4ヵ所でのコンサートが計画され、私を含めた3人の指揮者でそれぞれを振り分けることになってリハーサルも精力的に行ったが、そんな中マネージャーのヴェロニカに誘われてブダペストに出向いた…「演奏旅行中は燕尾服にも皺(しわ)が付きやすいし、この機会に衣装をもうひとつ作りらない? 既にデザインもお願いしてあるから、今のうち仮縫いすればルーマニアには間に合うわよ!」 そもそも演奏会で燕尾服を着て演奏するのは…スポーツ選手がユニフォームを着るような感覚?だろうか…袖を通すだけで身が引き締まる感じがして私は大変に気に入っているのだが、ハンガリーの人々はプラスアルファとして何か東洋的な魅力を日本人の私に感じることがあるらしいのだ。果たして一体どんなデザインだろう? 興味津々だった!

 

そして…ルーマニア行きを数日後に控えた4月最初の週末を、ソルノクから北に車で2時間近くの湖畔にあるオケマンの別荘で過ごすことになり、仲間たちとの束の間の休日を釣りしたりおいしい食事を食べたりしてのんびり過ごしたのだが、その翌日に突然“それ”はやってきた。別荘から一度ソルノクに戻ったオケのインスペクター(団員の取り仕切り係)でありオーボエ奏者のイムレが、血相を変えて飛び込んできた。「マサヒロ~、ニュースだ。驚くなよ!」 そういって取り出したのは、市長からの親書だった。『ソルノク市長サライ・フェレンツ及びソルノク市は、指揮者イザキ氏のソルノク交響楽団との活動成果に大きな敬意と感謝を述べ、同氏を“ソルノク市音楽総監督”に任命することを決定し、同氏の今後の活動がソルノク市の音楽芸術の発展に寄与してもらえるよう切に要望する。任期は現一年に加えさらに来年からの五年間とするものである…。』驚いた、これには本当に驚いた!…ついこの間私に音楽監督という地位を与えてくれたばかりでテスト・イヤーもまだ始まって2ヶ月あまりしか経ってないというのに!? コンセプト文書もまだ提出したばかりなのに!? しかも今年を加えれば6年の任期だなんて…去年就任したばかりの市長の任期より長いではないか!!

 

…後で聞いたのだが、チャリティコンサート、そして定期演奏会の反応はすざまじかったらしい。あまりにも大きな好評の声や意見を聞き、市長自ら決定を下したそうだ。ドイツの都市であれば、街の音楽芸術の方向性を決め発展に尽くす音楽総監督(GMD)は数多く存在すると聞く。しかしここハンガリーでそういった総合的立場の人物がいることは聞いたこともないし、それも地方都市ソルノクでのことだ。ハンガリー人でなく、ましてヨーロッパからも遠い日本人の私が任命されるとは! いささか戸惑いを隠しきれないまま、こうしてここに『ソルノク市音楽総監督』が誕生したのだ。

 

ルーマニアの旅、しかしそこは…

そして、菜の花咲き乱れるルーマニアへの旅に出発だ。4月13日朝、アバ・ノヴァーク前の駐車場に集まったオーケストラのメンバーたちと大型バス二台に分乗し、これに楽器・楽譜を運搬する小型トラック一台が先行して同行する一行の旅が始まった。オーケストラのメンバー以外にも市側から文化担当の女性副市長のカーロイさんや文化センター所長、サポーター企業の重役も同行しての旅…国境を過ぎて時計の針を一時間進める、こんな時差が変わるところも大陸の旅ならでわだ。約4時間の行程の後に最初の訪問地・アラド市に到着、早速ここのコンサート会場を訪れた。ベートーヴェンが訪れたというこの会場のロビーにはリストが弾いたといわれるピアノがあるそれはそれは古いホール、…でもまるで大きな教会の中に演奏会場があるようないでたちだ。その豊かな残響そしてホールの鳴り具合は本当に素晴らしく、客席からロビーに出るとホールという“巨大な箱”が反響して鳴り渡っているのが外からでも分かるくらいだ。本当に歴史の重みを感じずにはいられなかった。翌日は朝8時にアラドを後にして、3時間の行程の後に一行といよいよデーヴァに向かう…が二日目の予定はハードだ。デーヴァ市外の山頂にある旧城の中庭での野外コンサートの後、デーヴァの孤児達の家を訪れて一緒に昼食をし、そこからさらに6時間近くバスに揺られてセーケイウドヴァールヘイという小さな街を訪れるという日程だ。<画像はアラド市のホールでのステージリハーサル>

 

読んでいる皆様にはただただ想像していただくしかないが…車窓には見たこともない景色が次々に飛び込んでくる。中でも巨大な工場群には驚かされる。福岡育ちの私は小学生時代に北九州工業地帯見学として、八幡製鉄所や数々の工場群を見学に行った記憶があるが、今回見たものはそれをはるかに凌ぐ、町全体が工場化しているような様相だ。高い煙突、要所要所を跨(また)ぐかのように連なったコンベアー、しかもそれが数kmの場所を変えて至る所にあるのだ。でも共通して色彩はことごとく暗く、冷たい印象を与えられる…それもそのはずだ。こんな巨大な工場群が今では廃墟になって一箇所も稼動してないのだ。聞けばこれがチャウシスク政権時代の遺産だそうだ。ベルリンの壁崩壊後ハンガリーは無血で民主化に成功するが、ルーマニアだけは流血の革命だったことを思い出した。そうしたところからも独裁恐怖政権だった時代の権力の大きさと、それが潰(つい)えた後の廃墟の冷たいイメージが遠い島国で何も知らずに過ごしていた日本人に“生(なま)の”光景として目に焼きつかされるかのように飛び込んでくるのだ。

 

またこんなユニークなものもある。かつて東(インド北東部あたり)から流浪の旅を続けてきたジプシーと呼ばれる人たちのうち、裕福な財を成し得た一部のジプシーたちがこのトランシルヴァニア地方でひとつの文化を築いている。それが写真のような“ジプシーの館”である。これはほんの一例である。こうした見たこともないような建物がいくつもいくつも建っているところに、民族そして文化の多様性を感じずにはいられない。そしてこれは決して旅行者のためのガイドブックにはまず絶対に載っていないような光景ばかりなのである。

<画像はジプシーの館>

 

 デーヴァ市外の山頂にある旧城の野外コンサートをまぶしい太陽の下で行った後、オケ一行と水害孤児たちの住む施設を訪れた。いっぱいのプレゼントを携えてだ。我々の姿を見つけた途端、先日のソルノクでのチャリティコンサートに訪れた何人もの子供たちが駆け寄ってきた。そして我々をまるで久しぶりに会った肉親であるかのように…ある子供は飛びついて抱っこをせがんだり、またある子供は自分の部屋に案内するといって手を引いて離さなかったり…それはそれは熱烈な歓迎だった。「子供たちにとって皆さんは全て家族なのですよ」 そう言って、世話をしているシスターたちは我々に語りかけてくる。そして施設を案内してもらった。 たくさんある部屋はそれぞれ一部屋ごと年少から年長の子供たちが兄弟のように過ごせるひとつのグループずつに分けられて、この施設だけで100人近くが寝起きを共にしている。施設のあちこちには至る所から届けられた善意の品物が山積にされ出番を待っている。もちろん裕福な暮らしではないが、皆が家族として生き生きと暮らしている。ここにはもう失われてしまった、かつての大家族の生活があるかのようだ。

 

食事の時間だ。大きな食堂に案内されると器にシチューが盛られる。と同時に器に盛ったパンも回ってきた。シチューはジャガイモに少しのハムが入った薄味のクリーム風味、そしてパンは自家製の大きなコッペパンを切ったもの。そしてミネラルウォーター…。誰もがただ黙々と口に運んだ。メンバーの皆は分かっていたのだろう、これがこの施設の人々が精一杯もてなして出してくれたであろう食事であり、子供たちにとってはごちそうとなるものであったことを。そして彼らは自分たちの食料の一部を我々のために提供してくれたことを…。

 

食事を終えて我々は、何度も何度も手を振りながらいつまでも見送る子供たちを後にして次の訪問地へと向かった。しかし私は…ずっとひとつのことで頭がいっぱいになった。チャリティって何だろう?ボランティア活動っていったい何なのだろう? あの子供たちの生活を間近に見ていたら、いくらチャリティ活動で善意のお金を集めたところでとても間に合わない。本当に子供たちに同情を寄せこれからの生活を考えてあげるとすれば、音楽活動で善意のお金を時間掛かって集めるより、あの子供たちの直接の世話をしてあげる方がよっぽどすぐに親身に助けてあげられるのじゃないのか?? 自分たちがやっていることは、富める人間が貧しい人間に対して『善意』という名で虚飾した“施し”でしかないんじゃないのか??? しかしそれは答えの出ない虚しい自問だろう…そして誰に同じことを問いかけても同じ答えしか返ってはこなかった…人間が同じ人間に対してできることはごく限られたものでしかないよ。その範囲を逸脱すれば、今度は自分が財を失い助けてあげられなくなる。だからできることをすることが大切なことなんだ・・・。釈然としない思いを抱きながらも、納得するしかなかった。

 

 デーヴァからバスは一路東を目指して約250kmを6時間かけて移動した後に、トランシルヴァニア地方でも特にハンガリー人が多く住んでいるというセーケイ地方に入った。ルーマニアなのにハンガリー人? こんな不思議を理解するために、歴史上のこの地方の変遷を知って頂かなくてはならない。

ルーマニアはその昔ローマ帝国の領土の一部であり、「ローマ人の土地」を意味するそうで、今でもハンガリーの人たちはRománia(ロマーニア)と呼んでいる。この国の歴史においては常に中央アジア出身の遊牧民族らの支配にさらされ続け、領土内には3つの公国が出来た後に、その中のトランシルヴァニアと呼ばれる土地がハンガリー王国の一部になったそうだ。しかしそのハンガリー王国もハプスブルグ家の支配下となって、オーストリア=ハンガリー二重帝国としてこの地を領土としていたのもつかの間、第一時世界大戦で敗戦国となったがために、トランシルヴァニアは大戦前に統合・独立していた2つの公国に併合される形でルーマニア王国となり、1920年のトリアノン条約以降ハンガリーはこの領土を失っていたのだ。しかしそれ以来90年近くを過ぎた今も、このルーマニアにはハンガリー人を自称する人たちがそこに住み続けている。とりわけトランシルヴァニア地方の東部にあたるセーケイ地方には、ルーマニアにいる半分近くのハンガリー人が住んでいるそうだ。戦争という歴史の悲劇の中で、ハンガリー本土からいわば“取り残された人々”たちを訪問するために、今回デーヴァからさらに離れた場所にあるセーケイウドヴァールヘイにまで我々は足を伸ばしたわけである。

 

デーヴァの子供たちと過ごした時間が長くなってしまって予定の時間を1時間半も大幅に遅れ、それでも何とか目的の教会に着いた時に目にしたものは、ハンガリー同胞の到着を今か今かと待ち続けていた会場いっぱいの人々の姿だった。先着の楽器運搬隊から遅延のことは聞かされていただろうけれど、本当に本当に首を長くして待っていてくれたのである。温かく迎えてくれる人々の歓迎の声に6時間も休憩なしでバスに揺られ続けてきた疲れは吹っ飛び、音出しをする間も惜しんでセッティングを急ぎ、いよいよセーケイの人々の前での演奏開始だ。アラドとデーヴァのお城での演奏はそれぞれ創立指揮者やもう一人の指揮者が担当をしていたから、私の演奏は今回これがルーマニアでの最初になるのだ。おそらくこんな山奥の村で日本人の姿など見た人などいないだろう。演奏前のレセプションとして副市長のマーリアさんが市長からの親書を読み上げるのを緊張と期待の入り混じった気持ちで聞きながら、スピーチ終了と同時に…今回新調したばかりの衣装を着てオケの前に飛び出すように歩み寄っていった! オケの面々から笑みがこぼれた。この日まで新しい衣装のことは内緒にしておいたのだ。そして聴衆からの盛大な拍手に包まれて、ベートーヴェン作曲の「フィデリオ」序曲を振り始めた。今回選曲したのはこれに引き続きシューベルト作曲の「未完成」交響曲、そしてメンデルスゾーンの「イタリア」交響曲である。6時間の行程を過ごしてオケのメンバーは凄く疲れているはずなのに…そんな様子は微塵もない。「未完成」の美しい旋律が、会場の心地よい残響の中に溶けていき、「イタリア」の明るい音色がこの教会で晴れやかに輝く…言葉に書くとさもありなんという表現でしか表せないのだが、まさにその通りだった。 「イタリア」の終楽章はサルタレッロと呼ばれる激しい舞踏のリズムを持つ楽章だ。当然クライマックスだけにテンポは速い…ところが思いのほかテンポが速くなりすぎた! アンサンブルが乱れやすい箇所に差し掛かる…ところがどうだろう、むしろ加速をつけるように演奏は盛り上がり、その高い燃焼度のままクライマックスを迎え一糸乱れずに終わったのだ。(後からその演奏のすざまじかった事をスタッフから聞いて皆を讃えたが、演奏しているメンバーは夢中になり過ぎてはっきり覚えていないそうだ) <2枚とも教会での演奏>

 

 アンコールにハンガリーものを数曲演奏して大いに盛り上がった会場で、神父さんや村長さんたちからねぎらいと感謝のスピーチを頂いた。そして全員が起立して…ハンガリー国歌の斉唱が始まった。年端のいかないような子供から、もう歯のないおばあちゃんになった人までが、一心に歌っているのだ。これがどういう意味を持つのか、お分かりだろうか? かつてこのあたりをハンガリー人自治区と認めていたルーマニア政府は現在それを廃し、地域公用語としていたハンガリー語も同じく廃止されているのだ。つまりここに住んでいる人々はハンガリーの地から遠く離れた別な国に住んでいるだけでなく今はその存在を否定されながらも、でもハンガリー人としての誇りを失わずに生き続けているのだ。そしてその地に訪れた本土からの同胞たちと噛み締めるように今国歌を歌っている…なんと心に染み入ることか! そして皆誰もが涙しているのである。そういう誇りと愛国心を持ちながら「自分の国の歌」を歌えることを、…是非はともかく、国歌斉唱や国旗掲揚を一部拒否する社会問題を抱えている国の人間として、私は恥ずかしい気持ちと羨ましい気持ちで深く感動しながら聞き入っていた。

 

 翌日はもうひとつ、演奏を行った。そこから程なく離れた地にある“ショーバーニャ”という場所である。ショーは「塩」バーニャは「洞窟」という意味で、ハプスブルグ家最盛の時代から、地下で岩塩の採掘がされていて、その掘り終わった場所は巨大な洞窟広場になっており、今回はここで演奏会を行うことになっていた。観光名所として知られて多くの人たちが集まる中で、チャリティを行うという趣旨である。入り口からトロリーバスで地下約100mの深さまで降りる。そこからは木製の階段が延々と続く中を5分くらいかけて徒歩で下る。そしてついたところは…広大な広大なまるでドームのような空間だ。黒大理石のような表面が滑らかで光る岩盤が露出していて、薄明かりに照らし出された雰囲気はとても幻想的だ。外の気温は肌寒かったのに、ここはまるで天然の暖房設備があるように暖かい。木製のベンチや子供たちの遊具ななどが置いている中を歩いていくと、奥まったところにちょうどオケが収まりやすいスペースがある。そこが今日の演奏場所だ。

 

 1月に初めて訪れた時に、ここで演奏したらこんな響きがするだろうな!と想像はしていたが…演奏を始めてびっくり!! あまりにも残響がありすぎて、出している音が混じりに混じってしまうのだ。残響のことや聴きに訪れるお客さんへの認知度を考えて、フィンランディアやハンガリー舞曲などの小品を中心に選曲をしてはいたが、そのフィンランディアの冒頭…金管和音の後に1拍分の休符があるのだが、音が残りすぎているから次の棒が振り下ろせない! そんな「間」の中にまるで音楽が空間に溶け合い、消える一瞬まで空中を漂っているかのようだった。よくお風呂で歌っていると響いて気持ちよく歌える(笑)というが…そんな気持ちよさを通り越して、神々しいとさえ感じる瞬間だった。貴重な体験であった。<画像はショーバーニャでの演奏>

 

3日間の全ての行程が終わった。また村々を通り過ぎ、羊飼いや牧童のいる草原を抜け、山々に映る美しい夕焼けを車窓に見ながらの帰路、途中トランペット楽団員のご両親の住む村での夕食会に招かれて寄り道をし…結局ソルノクに戻ってきたのは、日付も変わった夜中の3時を回ってしまっていた。旅の疲れは残っても大きな達成感、そしてこれまで得ることのなかった大きな経験を重ね得ることができ、大きな仕事を成しえることが出来たと思う。「同じ釜のパンを食べた?」楽団員たちとも色んな交流を重ねることですっかり信頼感も高まったし!

 

帰国を数日後に控え、ソルノク市役所に赴いてこの演奏旅行成功の報告をするとともに、音楽総監督として第一回目の協議の席についた。先に出したコンセプト実現のための大幅予算増をお願いし、これまでインスペクターとして活動していたイムレを市側と公的に交渉する権利を有するマネージング・ディレクターに任命すること、そして個人マネージャーのヴェロニカを私の正規の代理人として認め交渉を進ませてもらうことなどを伝えた。全てにOK!の返事を頂き、大きな満足感を得て一時帰国の途についた。音楽総監督として全ては順風満帆な幕開けだった。

 

日本に帰って暫くして、今度新しく所属が決まった音楽事務所・コンサートイマジンに今回の報告を兼ねた挨拶に訪れた。その席でいきなり、社長・佐藤氏からソルノク響の来日公演を行ったらどうか?との話を持ちかけられた。この思いもかけない言葉に、就任したばかりのオケがこの先どう発展できるかまだ見当がつかないという一抹の不安も感じながらも、やはり心が躍ってくるのを止められない。社長からの、大抜擢された音楽総監督としての話題性が消えないうちにという提案に、私自身の手腕の成果が楽団員によく浸透し確かなものになる頃に行いたいという私の希望も踏まえて、2009年に招聘を!という運びでこれから計画をしていくことになった。折しもこの2009年というのは、日本とハンガリー(その頃のオーストリア・ハンガリー帝国)とが国交を樹立してちょうど140年、戦後その国交が復興してからちょうど50年、またハンガリーが共和国としての国の体制を取るようになってからちょうど20年になるという、まさにはかったように記念の年が重なる年だ。この2009年にハンガリーのオーケストラが来日するのは意義のあることであるし、今唯一の日本人として指揮活動を行う自分がハンガリーと日本の架け橋的な役割が出来たら…そう考えるとぜひ実現せねば!という期待に胸が膨らむ思いだった。

 

6月に再渡航する時には、アバ・ノヴァーク文化センター館長との具体的な懇談もある。オケの本拠地として来シーズンに向けスタートするため、センター側との折衝をするためだ。ぜひその席でこの話を館長そして市長にも伝えたいと思い、早速その話をハンガリーのヴェロニカに電話をかけた。受話器のヴェロニカの声はおめでとう!と喜んでくれたが、その後一転してため息をついた沈んだ声にすぐに変わった…「それがねぇ、マサ。また困ったことになったのよ。」 ……一体何が起こったのだ? 喜びもつかの間、不安な思いがよぎった!


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