作の初演
第20回九州作曲家協会『アジアと九州をうたう』 '99.Sep.3.福岡中央市民センター

曲目
二宮 毅作曲 「涅槃西風~27人の奏者のために~」
東大円作曲 「テフラⅡ-室内オーケストラのための」
千原 卓也作曲 「雲の南はるか-室内管弦楽のための」
久保 禎作曲 「春籟樂」
演奏
九州現代音楽祭管弦楽団(コンサートマスター;原田大志)
(この演奏会のために、福岡在住の演奏家を中心に特別編成された室内オーケストラ)

 

今は私の母校である福岡教育大学で後進の指導にあたり、その福岡を中心に演奏・創作活動を行っている古くからの友人、H.T氏(ヴァイオリニスト、九州作曲家協会役員)の招きで、管弦楽曲の新作4曲の初演を行った。学生時代や、それこそ指揮者になりたての頃は、作曲科の友人の依頼や自分から求めて初演をよく行ったが最近はご無沙汰だったので、ある種の期待と緊張を持って演奏に取り組んだ。またそれ以上に地元で演奏できる喜びを味わった。私事で恐縮だが、息子が久しぶりに地元でタクトをとるとあって聴きに行きたいのだが、“現代音楽”は難しくてわからないんじゃないかと心配している両親の反応が面白かった。

 よく人から“初演って面倒なものでしょう?”と聞かれることがある。実を言うと、ある意味でとても楽であり、またとても厄介である。楽だというのは、疑いもなくそこにその曲を書いてくれた作曲家がいてくれることである。普通指揮者はスコアに書かれた音符から、音楽の持つ意味や背景・イメージを読み取り、そこから作曲者の意図を嗅ぎ取らねばならない(と私は思っている)。でもそういうことをあれやこれや考えなくてもそこに作曲家が実在しているわけであるから、「ここのテンポの変化はどのくらい?」「ここの音量差はこのくらいでいい?」「このソロの音色は?」などと言う具体的なことから、「このあたりの音響ってどんなイメージ?」「このタイトル(楽語)の意味って?」とか、時には「何でこんな曲書いたの?」と漠然としたことまで実際に聞いて演奏に反映させたり、自分の中でイメージ化する手助けをその作曲家の目と耳を通してやってもらえるわけである。それに演奏するオケのメンバーの目前で棒を振るっていう場所は、実は全体を聞く上ではこの上なく悪い場所である。だからむしろ作曲家に離れて全体を聞いてもらうことは作品を完成させる上で必要不可欠なことであろう。

 しかしその楽だと言ったところに諸刃の刃がある。充分なインフォメーションもないまま何度もスコアを眺めて自分なりにイメージを持ち、書かれてある事から理解し得た音楽解釈を元に練習に臨んだとしよう。それがもし作曲家の一言で「間違い!」と否定されたなら、自分が楽譜から受けた印象と作曲家から述べられるイメージとの大きな隔たりがある場合は・・・もうそれは悲劇としか言いようがないだろう。作品の意図が理解できない場合や理解や共感が生まれないのに、自分の考えとは裏腹に言われた通りのみに終始に演奏することは私にとっては苦痛になるに違いない。こうしたことを避けようとあれやこれや考えるのであるから、これは言うなれば厄介なことである。(もうそこにいない作曲家の作品を指揮することの方が、誰からも?文句を言われないわけだから・・・!)

 今回は、4曲それぞれに“楽なところ”や“厄介なところ”があったのだが、それが今述べた通りの楽な事や厄介な事に終わらなかったところに初演演奏の難しさを感じた。いくつか例を挙げてみよう。ある曲は細かなテンポの変化の指示があったのだが、書かれている音群自体にはテンポの変化に影響されない自由さ、言い換えるとテンポの変化があってもさほど全体の音楽の流れが変わらないように思える個所があった。テンポ自体もメトロノームの速度にしてそれほど大きく差があるように思えなかったこと自体、スコアの読み込みが足りなかったのかもしれないが、それが作曲家の特徴であり、またそこにこの作曲家独自の美意識があったのかもしれない。事実演奏者の音にも最初なかなか現れて来なかったのだ。一度疑問が湧くとなかなか解決することは難しい。こっそりテンポの変化を大きくしてみた。すると演奏家は全体の音楽のよさとは裏腹に、書かれている音符の正確性を守ろうと in tempo (テンポを守ること)を要求してくる。じゃぁ書かれているテンポをメトロノームのようにキープしていれば音楽になるのか? 今度は作曲家の表情が面白くなさそうである。第一、指揮者はメトロノームなんかじゃない。テンポ通りに演奏すればいいんだったら、こんな苦労はしない。

 ・・・だんだん欲求不満度がアップしてくる。じゃぁこれがこの作品の持つ限界なのか?そうだったら何もしなくていいのか? 冗談じゃない!そんな割り切りを持っていていい演奏になるはずがない。特別な例かもしれないが、シューマンの曲だってオケが鳴りにくい曲はあるし、ベートーヴェンだって演奏しやすいようには書いていないのである。演奏によって作品の良し悪しだって決まるのだ。それをやるのが演奏家の仕事なんだと思う。(第一それを放棄しちゃったら、見知らぬ、聴き知らぬ?曲を聴きに足を運んでくれるお客さんに失礼だと思う!)

 もうひとつこんなこともあった。スコアを初めて眺めた時から、ピン!とくる作品があった(相性が良さそうだった)。 そこで最初の練習の時から結構力をいれて、自分が考えうる一番の方法でこの曲が演奏されるようにオケに対して細かな指示を行った。その意を汲んでか演奏家たちも精一杯表現をしてくれたのだが、意外に作曲家の反応は冷静でそこまでの表現が必要ない口ぶりである。これには拍子抜けしてしまった。

 ・・・・何度かの練習で試行錯誤を繰り返し、一番うまくいった形をどの曲も本番で試みて、これまでの葛藤や緊張から開放されたかのように本番の出来はとてもよかったように思う。やっぱり一番大切なことは本番に向けて集中力を高めていくことだ。(作曲家たちもそう言ってくれた)お客さんの反応も曲によって多少の差こそあれ、おおむね好評だったように思う。

 そう、こうした新作をなかなか聴く機会のない聴衆に披露することは、福岡という土地柄に関係なく(東京でも同じだと思う!)大きな困難や多大な労力を伴ったことだろう。冒頭で紹介したように、息子が演奏活動をするようになって比較的クラッシック音楽に接する機会の多い両親にしたって、やはり先入観はあるのである。そうした前提があったとしても聴きに来てもらえるようにと働きかけるには、主催者の労力も如何ばかりかと察して余りあるものがある。でも今回は開催する主催者の意気込みに加えて、演奏するオーケストラのメンバーや出展した作曲家たちの演奏にかける気持ちの高まりや充実を大いに感じた。それはこうした機会がなかなかないからという単純な動機だけでなく、九州人としての気骨のようなものに思えたのは、少し身びいき過ぎるかもしれないが・・・。でも振る本人に地元で演奏できる喜びと意気込みがあったんだから、それは伝わったんだと思っておきたい。