ンガリー国立歌劇場・デビュー公演-その1

プッチーニ作曲/歌劇「ラ・ボエーム」(全4幕)1999年10月12・15日


出演
ロドルフォ/フェケテ・アッティラ (FEKETE Attila)    ミミ/シュメギ・エステル (SÜMEGI Ester)
マルチェッロ/ブシャ・タマーシュ (BUSA Tamás)   ムゼッタ/フュレプ・ジュジャンナ (FÜLÖP Zsuzannna)
ショナール/コヴァーチ・パール (KOVÁCS Pál)   コルリーネ/キラーイ・ミクローシュ (KIRÁLY Miklós)
ベノア/スィラージィ・ベーラ (SZILÁGYI Béla)   アルチンドロ/ロージィ=ビーロー・ヤーノシュ (LÓZSY-BÍRÓ János)
パルピニョール/チキ・ガーボール (CSIKI Gábor)          その他の皆さん
演奏
ハンガリー国立歌劇場管弦楽団   ハンガリー国立歌劇場合唱団 及び児童合唱団

 

与えられた課題や困難が大きければ大きいほど、乗り越えたときの喜びもまた大きいとはよく言われることではあるが・・・。それにしても今回のハンガリー国立歌劇場(*1)へのデビューはまさしく四方八方難関に包囲された中に、一人投げ出されたかの感があった。そして、自分の感じている以上に周りの人々が成功を祝ってくれて、少しばかり当惑している・・・。以下はハンガリー国立歌劇場での奮闘記である。

 話は少々逸脱するが、4年前にさかのぼる。ブダペスト国際指揮者コンクールの第2次審査もハンガリー国営テレビで中継されていた。課題はバルトーク作曲「舞踏組曲」で、この時の私の演奏に注目していた一人の人物がいた。その後優勝が決まり副賞としていくつかのオーケストラとの演奏のチャンスをいただいたのだが・・・、その中のひとつの自分の耳を疑ったもの、それが「ブダペストオペレッタ劇場初の日本公演を指揮」というものであった。コンクールの副賞の一覧はコンクール参加時にもらった要項にあったが、オペレッタ指揮なんてどこにも書いていなかった。後で聞いたところによると、私が優勝したことによって急遽設けられた副賞だったらしい。コンクールの、それもまだ結果もわからない第2次審査の段階から私に注目し、この賞を与えてくれた人物、その人こそハンガリーでも指折りの演出家で当時オペレッタ劇場の総裁であった、シネタール・ミクローシュ氏(*2)だった。 

 その後彼は国立オペラ劇場の総裁に就任し、次々に采配を振るった。運営上の数々の改革はもちろんのことであるが、演出家としても多数のオペラを演出し、その名声は私の知るところでもあった。私もソムバトヘイ市・サヴァリア交響楽団の芸術監督・常任指揮者としてハンガリーでのキャリアを積み始め、一方オペレッタ劇場の客演指揮者としても公演を指揮する機会を度々得た。そしてゆくゆくはオペラを振りたい・・・それもあの国立歌劇場で!というのはひとつの夢でもあったのである。

 そして今年6月、半ば突然に連絡がありオペラハウスでの客演指揮がとうとうできることになった。もちろんこれもシネタール氏の指名によるものであろう。しかしハンガリーの音楽界にとどまらず文化の最高峰に位置する国立歌劇場だ。おいそれと呼んでもらえるものではないことは私でも知っている。それがどうして可能になったのだろうか?これまでの演奏キャリアや内容を評価してもらえたのだろうか?これも後で聞いた話であるが、彼が私の演奏会の客席に現れることもあり、周りの聴衆を驚かせることもあったらしい。特にサヴァリア響がブダペスト公演で演奏したシベリウスの交響曲の指揮にそうした感触を得たということである。「正浩には情熱的でロマンティックなオペラを振らせたい・・・」そうしたシネタール氏の申し出に劇場が用意してくれた演目が、プッチーニ作曲「ラ・ボエーム」だったのである。

 言うまでもなくプッチーニの代表作のひとつであるオペラ「ラ・ボエーム」も、この劇場の古くからの重要なレパートリーのひとつである。数々の名歌手たちが歌い継いできた伝統ある演目も、昨年ヴェローナ・オペラとの共同制作による舞台装置(セット)のリニューアルが行われ、よりグレード・アップ。大変に人気の高い演目のひとつだそうだが、私は残念ながらまだその実演を見たことがなかったのである(全ての苦労の始まりはここにあったかもしれない)。突然決まったデビュー(客演指揮)に「いよいよオペラ・デビューができる!」と期待に胸を膨らませ、万難を排して望もうと思った矢先、この公演が今シーズンのボエームの第1回目の公演と聞かされて期待がより高まったのもつかの間、じわりじわりと包囲網!?が始まった。

 まずリハーサルである。なんと提示のあったリハは、オーケストラと1日、歌手と1日の2日間だけであった。今シーズン初の公演とはいえもうすでに出来上がっているプロダクションである。新たに客演指揮者のために特別な稽古時間を与えることはスケジュール的にも財政的にも許されないことなのである。しかしこれでは初めて振るボエームで力が発揮できない! マネージャーを通してせめて歌手たちとのピアノ・プローべ(ピアノ伴奏によるリハ)を増やせないか頼んでもらうことになった。

 結局"Igen”(ハンガリー語でYes)の回答がないままブダペストに入り練習に望むこととなった。10月9日最初のリハはオーケストラ・プローべである。オペラハウス内にはリハーサル室があるが複数のプロダクションが同時進行のため、連れて行かれたのはやや離れた建物内にあるオーケストラのためのリハーサル・ルームであった。ハンガリー国立歌劇場管弦楽団が通常単独のコンサート・オーケストラとして活動する際(*3)に使われる部屋で、緊張して中に入ると懐かしい顔がちらほら・・・そう、このオケとは実は3回目の共演(*4)だったのだ。私のことを覚えていてくれた何人かが声をかけてくれる。以前サヴァリア響でチェロ協奏曲を一緒にやったソリストがチェロのトップだ。わずかながら安心する。しかしほとんどは初めて見る顔ぶれだ。目を合わせるたびに「この若い日本人指揮者が、いったいどう振るのかねぇ~?」そんな風に思っているんじゃないかと感じられて仕方がない。やっぱり自分自身緊張していることを悟った。その時オケのマネージャーから意外なことを聞いた。オケのみの練習ではなく、歌手も合わせにくるのだという。一瞬安堵したが、よくよく考えてまた考え込んでしまった。"事前のリハも無しに歌手といきなり合わせなんて? お互いの音楽を何も知らないのに!”

 リハーサルは3時間、途中20分の休憩が入るそうだ。実質2時間40分!通すだけでも2時間はかかるのに!?。緊張が解けぬまま指揮台へ近づくと、もうひとつ恐ろしいことが待っていた。なんと、オケの並びが違う! 1st.ヴァイオリンは通常の位置として指揮台の右に2nd.ヴァイオリンが並び、間に左からチェロ、右からヴィオラが挟まりコントラバスはチェロ後方という、いわゆる19世紀・古典スタイルの配置なのだ。木管楽器は指揮者の正面であるが、金管楽器は木管の列を右手に延長してヴィオラの後ろに連なり、打楽器はそのまた後ろである。(後でピットを見て気付いたが、とにかく広いオケピットなのである。) こういう並びはいずれ試してみたいとは思ったことがあるが・・・初めての経験なのだ。「ええい、ままよっ!」気持ちを奮い立たせて高い高い指揮台に上った!

 指揮棒一閃!、うっ重い!・・・思ったよりも音の出が遅い。それでも前へ前へとできるだけ音楽を運ぼうとする。そして最初の第一声は画家のマルチェッロだ。いつの間にかオケの後方の舞台に陣取った歌手たちがいた・・・いったい誰が歌うんだろう?"Quest mar rosso・・・”張りのある声が響くと途端にオケの流れが変わる。微妙に声にオケが反応しているのだ。歌ったのはタマーシュだった。彼は食い入るように私の棒を見つめている。(そのはずだ・・・彼もまた今回のマルチェッロ役でこのオペラハウスにデビューすることになっていたことを後で知った。)続いてロドルフォ役のアッティラ(*5)の声・・・思ったよりも軽い、そして彼の歌い方のテンポがつかめない!(今回の出演者のうち彼が最も若かった) 彼の音楽に合わせ何とか自分の音楽のペースに合わせてもらおうとするが・・・うまくいかない。そしてコルリーネ、続いてショナールの登場。しかし軽妙で緻密な四重唱アンサンブルも全くかみ合わないまま、アルチンドロの登場。オケもこの辺でペースを掴んでほしいところではあるのに、一向に「暖簾に腕押し」状態だ。ただただ喧騒の五重唱が終わり、いよいよミミの登場シーンだ。

これからがこの第一幕のクライマックスだ。ロドルフォの「冷たき手を」そしてそれに続く「私の名はミミ」の二大アリアが歌われる。それ以前のアンサンブルはともかく、アリアについてはこちらも歌手の個性を最大限引き伸ばさねばならないし、相手も全体の音楽の要所を指揮者とオケの流れによって締めてもらわねばならない・・・いわば阿吽の呼吸が大切なところだ。ここへきてようやっとお互いの一致点を見た思いがした。

 しかしわずかな一致点を除いては短いリハ時間中に全てを通さねばならない制約にがんじがらめになり、確認事項をはっきりすることさえもままならない。もう既にオケは自分たちのペース、テンポ、音楽の運びが染み付いていて、その流れを変えようとすると途端にアンサンブルが崩れる。合わせようとしてはくれるのだがお互いに空回りになってしまう。中にはイライラし始めた団員もいて、棒とまったく関係なく演奏するものも出てくる始末。それを諌める団員との間で口論が始まる始末で、主導権がつかめない。そして・・・・ただ通して、どうしても合わなかった数個所について自分の振り方を見せただけで・・・練習終了時間が来てしまった。

 何という敗北感、何という虚無感なんだろう!救いは歌手たちと次のピアノ・プローべでお互いよく合わせて行こう!と確認が取れたことだけだ。団員がほとんど帰って静かになったホールの片隅にへたり込んで、もう何も考えられなかった。「一体どうすればいいのだ!」 ・・・そこへミミ役のエステルが近寄ってきた。「お疲れ様!マエストロ。とっても歌いやすいテンポだったわ。ところで私の歌い方の何か問題はなかったかしら?」 思いがけない言葉に思わず顔を見つめてしまった。あんなに不確かな棒でアンサンブルを乱して歌いづらい場所を作ったのに!にこやかに彼女は去っていった。

 翌日は部屋にこもりスコアの全ての個所で自分の思い通りに行かなかったことをフィードバックしてみた。もう何十回とこのオペラを演奏しているオケは自分たちが最も演奏しやすいテンポや、ここの指揮者によって作られた音楽の流れをまず打ち出してくるから、その彼らの考えているレヴェルと違うアプローチをしてもうまくいかないばかりか理解を示してもらえない。「じゃぁ一体指揮者は何のためにいるのか」とこの文を読んでお感じになる方はいっぱいだろうが、冷静に考えてみると、毎日違った演目を演奏している彼らにとっては、客演してくる数多い指揮者のレヴェルにそれぞれ合わせていたのでは、自分たちのスタンダードはキープできないのだ。

 以前サヴァリア響のあるコントラバス奏者にオペラデビューの話をしてみたところ、この歌劇場で演奏していたことのある彼は「あそこは“ファクトリー”(工場)だからねぇ」と少し困ったような顔をしたことを思い出した。そう、だから自分の思い通り全ては行かないかもしれない・・・、だけどそれでも何かできるはずだ!なぜか勉強を進めるうちにそう強く思えるようになってきた。彼らの流れの中で自分が作れる音楽はあるか?また自分の音楽に彼らのどこを引き寄せればうまく音楽し合えるか?各場面や音楽のそれぞれを詳しく分析し考えて、自分なりの答えを見つけていった。そして歌手にどう伝えまとめていくかをシュミレーションしてみた。明日は自分の音楽を精一杯ぶつけてみよう。そして同時に彼らの音楽に近づいてみよう!そう考えながら翌日の歌手とのピアノ・プロ―べ(ピアノ伴奏による音楽稽古)に思いを馳せていった。


<ハンガリー国立歌劇場正面玄関>

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*1 ハンガリー国立歌劇場は1884年に王立歌劇場として創設された歴史ある歌の殿堂である。88年にはまだ28歳だったマーラーが音楽監督に就任し、指揮者としてだけでなく劇場全体の企画・運営まで手腕を振るっている。日本にも昨年(1998年)初の引越し公演が話題になった。マルトン・エヴァ、シャーシュ・シルヴィア、トコディ・イロナなどはこの劇場で活躍した名ソプラノである。

*2 SZINETÁR Miklós 彼は若干20歳の時にボリショイ・オペラ(モスクワ)に呼ばれて演出を行ったというまさに天才肌の演出家だ。現在我が国で入手できる彼の演出によるオペラの映像(LD)として、バルトーク作曲「青ひげ公の城」がある。

*3 オケピットの入るときにはハンガリー国立歌劇場管弦楽団として、コンサートの際にはブダペスト・フィルとしてこのオーケストラは活動している。(ウィーン・フィルの形態に似ている。)ちなみにブダペスト・フィルの常任指揮者はリコ・サッカーニで、定期演奏はいつもオペラハウスの舞台を主に使っている。

*4 ミューヴェス・ハーズ社の2回のオペレッタレコーディング(カールマン「サーカス・プリンセス」、レハール「ジプシーの恋」)で既にこのオケとは共演していたのである。しかし、オケ自体のメンバーは毎日公演があるために、通常オケの倍以上のメンバー数である。このときも半数はサッカーニとフランスで演奏旅行中であった。

*5 当初予定されていたのはこのロドルフォが当たり役のケーレン・ペーターだったが、残念ながら体調不良によりフェケテが代わりに歌うことになった。実は、このケーレンはウィーン留学時代に私がジュネス合唱団の一員として参加したウィーン・フィルの定期演奏会のソリストだったのだ。もし共演が実現すれば18年ぶりの再会になるはずであったが・・・!

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