8回ブダペスト国際指揮者コンクール/第一次予選(ソムバトヘイ)

演奏オーケストラ/サヴァリア交響楽団

<課題曲>

a. 序曲(くじによって選んだ1曲を与えられた15分の中で演奏。コンサート形式で少なくとも5分間は通し演奏をし、残りはリハーサルを行うこと。)
  1.ベートーヴェン/コリオラン 2.モーツアルト/魔笛 3.ウェーバー/オベロン 4.ロッシーニ/セミラーミデ 5.ロッシーニ/セヴィリアの理髪師 6.ベルリオーズ/ローマの謝肉祭 7.ワーグナー/さまよえるオランダ人 8.ワーグナー/「ローエングリン」第1幕への前奏曲 9.J.シュトラウス/ジプシー男爵 10.スッペ/詩人と農夫

b. ハイドンの交響曲(第100番~第104番までの5曲)のうち、くじで引き当てた1曲の第1楽章を暗譜で指揮すること。

c. 与えられた楽曲について16小節間の演奏を行うこと。(課題曲発表時には詳しい内容が伏せられており、実際に直前になって与えられた課題は、本選課題曲でもあるベートーヴェン/交響曲第2番から、第1楽章冒頭~アレグロの入りまでにあるパート譜に故意に書き換えられた部分について、演奏後に聞き取れた全てを指摘すること。・・・全8箇所)

<コンクール一次予選通過者発表後の井﨑の安堵の表情~バルトーク・ホール舞台上にて 1995. May 12th >

<ブダペストへ>

送り返されてきたビデオテープ、それは紛れも無くブダペスト指揮者コンクール事務局に宛てて送った、メンデルスゾーン/交響曲第4番「イタリア」を指揮した模様(演奏;光ケ丘交響楽団-当時、現在の光ケ丘管弦楽団)を収めたテープだった。戻されてくる間に郵便局のチェックが入ったのか、封筒はボロボロになって所々破れており、随分とセロハンテープで補修がしてあった。宛名書きも住所の番地の一部が落ちており、よく届いたものだと思う。そしてその中に、予備審査通過を知らせる一通の手紙が入っていたのである。全てのスタートはこうして始まった。

前年にスイス・ジュネーヴで開かれた「エルネスト・アンセルメ記念国際指揮者コンクール」では、世界6ヶ所で開かれた予備審査で25人の参加許可者の枠の中に入っていながら、初の国際コンクール参加での重圧と緊張に押しつぶされそうになり、自分のよさがどうしても発揮できなかったように思っていた。そのため今回の参加ではぜひ自分のペースで、自分らしさが発揮できるように、焦らず音楽を楽しんでおこうというのが頭の中にあった。

たった一人で、それも国際コンクールへの参加というのは、ある意味では自分との戦いである。見ず知らずの土地と人々、言葉の問題による意思の不疎通やコミュニケーション不足、周りの他の参加者が皆自信ありげな様子に思えたり、自分の経験不足や不十分な勉強を何とか隠そうと虚勢を張ったりするものである。しかし、それは何の役にも立たないことで、コンクールの舞台ではすぐにそんな”化けの皮”ははがされるものである。自然体で”自分らしく”あること、それがこのコンクールでの成功への鍵のような気がしてならなかったのである。

 

<参加、そして第一次予選開始>

今でこそハンガリー入国にはビザの申請は要らなくなったが、当時はビザはもちろん通貨の持ち込み・持ち出し規制がかなり厳しかった。そうここは旧共産圏の国だったのである。古びた空港に一人降り立ち、集合場所のホテル・へリアへと車をとばす。その翌日にこのホテルでは参加者のための受付、コンクール開催の説明会があったのである。

説明会で最も注目されたのは、参加者の演奏順を決める最初の<くじ引き>であった。参加者はアルファベット順に参加番号を与えられているが、演奏順はその参加者中でくじ引きに当たった者から降順に行われる。すなわち自分が何番目に演奏せねばならないかは、くじによって決められるのだ。このときくじ引きを行ったのが、参加者中最も若いハンガリー人/ケシェヤク・ゲルゲイ(第3位に入賞)だった。

翌日2台のバスに分乗し、コンクール全参加者はブダペストから西へ約3時間半の古都ソムバトヘイに向かった。第一次審査はその都市にあるオーケストラ、サヴァリア交響楽団(ソムバトヘイ市交響楽団)がホスト・オーケストラであった。

>>第二次予選(ミシュコルツ)