~ハンガリーレポート①~

日本人指揮者を巡るスキャンダル!?

 

ハンガリーといえばその昔…西側に最も近い東側(共産圏)国として、見た目の独特な印象通りに一種独特な雰囲気を持つ国だった。事実私が1982年に初めてこの国を訪れた時には、禁止されているはずの通貨(フォリント)への両替が留学先ウィーンでの大手銀行でも行えたし、現地ではコーヒーが一杯15円に対して、(輸出品として外貨を稼ぐ)きゅうりが一本880円もする時代だった。一方ホテルで枕銭=ベッドメイクをするメイドさんへのチップを置いておいたのに、受け取らずにそのまま残されているようなお堅いところもあって、わずか3日間の滞在で社会主義国の“表と裏”を感じたものだった。当時はスパイも暗躍するような国と聞いていたが、時を経て東西ドイツの壁が崩壊して共産主義社会の構造があっという間に姿を消し、私がこの国のコンクールに優勝したのは、あたかもファーストフード店の増加やアメリカ資本ホテルの進出という目に見える形で自由経済社会が感じられるようなった頃だった。

 

 それから十余年…この国にあった旧共産圏時代の安定した政治・社会・経済状況は一変した。音楽家が活動する文化圏…およそ政治社会とは遠く離れた場所にいても、政府政策による経済の引き締めや一般企業の経営悪化による文化事業への助成削除など激変の影響が確実に迫ってくるのを直に感じた。約束されていた…コンクールの副賞だったグラモフォン社・CDレコーディングの中止に始まり、国立交響楽団との演奏会予定の度重なるキャンセル、渡航費の自己負担、演奏会指揮ギャランティの減少など、経済状況の雲行きの変化がひしひしと感じられたものだった。サヴァリア交響楽団のシェフになってからはより身近に感じさせられた。決定していた演奏会曲目を著作権料高騰のために変更せねばならないことがしばしばだったし、優秀な団員が重要な演奏会やレコーディングの前に“出稼ぎ”で他のオケに客演に行くのを止めるだけの経済保障も団にはなかった。そのレコーディングは1月の厳寒の中だったが、途中暖房設備が故障したのに録音スケジュールは変更できず、団員はコートを着て演奏し、中には寒さのため体調を悪くして寝込む女性奏者もいたくらいだ。(写真はレコーディング風景…暖房故障前)

 

そんな中ヨーロッパの大きな政治・経済の動きにより2004年5月にはこのハンガリーもEUに加盟し、連合大国社会の一員としての繁栄と発展が大いに期待されたものだった。しかし、政権を担った新政府の政策により助成金は一部の企業保護や政府関連施設・政策に回されて文化行政に対しては寂しくなるばかり。オケに対する助成金が減ったために、各オケは軒並み客演指揮を控えて常任指揮者の演奏に頼るようになり、オペラハウスは予算を半分にカットされたため新演出制作はストップし、お決まりのハンガリー人若手指揮者ばかりが登用される状況になってきた。同じ時期にEU加盟を果たしたチェコでは、助成金を文化事業の充実にも回して成功したと聞く。そのため演奏水準の低下を招くことなく、観光客誘致の成功もあって外貨を稼いで経済的運営に大いに成功したに違いない。その点ハンガリーは大きく出遅れた感がある。数年前には400円程度で食べられた定食が、今は2000円くらいに跳ね上がったところもあるくらいだ。

 

状況悪化にも負けず…

のっけから、読者の皆さんには悪い印象ばかりをお伝えしているが(笑)、きっとそんな状況での指揮者としての私の活動が本当に大変なのでは?と想像なさっていることだろう。もちろんここ数年ハンガリーで活動するに当たっては自己負担が増す一方で、滞在中の日本の活動休止に見合わない現地での低収入が続いてはいた。しかし本人はいたって心身ともに元気!で(理由はあとで述べる)、ハンガリーでの活動を満喫している。古巣のサヴァリア交響楽団からは毎年客演指揮の依頼が来るようになったし、ここ数年ドナウ交響楽団からは肩書きこそないが「首席客演指揮者」的な扱いで毎年招かれている。2006年4月にはコンクール2次審査で指揮して以降初めてミシュコルツ交響楽団(北ハンガリー交響楽団)に招かれてブルックナーを指揮し、現地紙やクラッシックWebサイト(インターネット)上で大きく取り上げて絶賛され、この国における指揮者としての知名度や評判が確実に高くなっていることを自負できるようになってきた。

 

ここでハンガリーでのマエストロ・イザキの優雅な?生活をご紹介しよう。通常オケのリハーサルは本番前の3~4日間であり、大体が朝9時~昼1時までの3~4時間が普通である。最近ではハンガリー語だけでも少しはリハーサルを進められるようになり、冗談も言い合いながら音楽に浸れるようになってきた。聞くところによると、私のリハはハンガリーの指揮者にありがちな高圧的なそれではなく、メンバーと共に音楽を作り上げるやり方が、かなり好評を持って受け入れられているという。そのリハでは緊張することもなく、自分の音楽を妥協なく実現できるのが本当に楽しく嬉しいものだ。 仕事をしているという感覚を時に忘れるくらいでもある! リハが終わればマエストロの活動その日は終わり。あとは毎日真剣!に悩むほど“お昼ご飯”にこだわって各地の名物を堪能し、それからはホテルに帰ってスコアや本を読んだりネット・サーフィン(インターネット上のサイトを色々と見て回る)をしたりと、いたって気ままな一日である。

 

最近ハマっているものがある。ハンガリーは知る人ぞ知る『温泉大国』なのだ。もちろん日本各地にあるような熱いお湯につかるものではないが、温水プールを想像して頂きたい…あれが温泉水でできているのだ。水着を着て屋外の日差しをさんさんと浴びながら、ゆっくりと体を温泉に預ける…日本にいては味わえない、そんな優雅でのんびりとした気分を味わえることに、本当に心癒される気分になる。こんな気分にハマったら、なかなか病みつきになった! ブダペスト市内にある「セーチェニ温泉」はお気に入りの場所のひとつだ。屋内・屋外に温度の違うプール状の温泉が3つずつあり、中でも屋外の水(湯)温38℃のものは本当に気持ちがいい。プール(温泉)サイドにはいくつかのチェス盤があり、常連のオヤジ衆が真剣なまなざしで興じている。そんな風景もなかなか見ていて楽しい。(写真はセーチェニ温泉)

また、ハンガリーには“温泉湖”があるのをご存知だろうか?「ヘーヴィーズ」といわれるその湖は、湖水の温度が一年を通じて30数℃と一定し、湖全体が温泉水なのだ。そこの湖底の泥には多くのミネラルや有効成分が含まれていて、ここから温泉水を引く各ホテルでは、全身の泥パックを受けることができる。しかもそのためには主治医の診察を受けて処方箋を書いてもらい、パック時間やそれに伴う水中エアロビクスや、マッサージを受ける回数などが細かに指示されるから、まさに至れり尽くせりの感がある。こうして心身ともに日本では味わえないくらいリラックスし、また満たされて次の演奏の準備に取り掛かることができるというわけなのである。(写真はヘーヴィーズ湖…人が浸かって温水浴しているのがわかるだろうか?)

 

突然訪れた新たなオファー

さて最近私の演奏会に足を運ばれた方は、会場で手にするプログラムの私のプロフィール欄に、新たな一項目を見つけておられることと思う。「ソルノク市音楽総監督」…これはブダペストから東に車で約1時間ちょっと離れたソルノク市内におけるオーケストラや合唱団、舞踊団といった団体、そして劇場の総括や年間の活動予定作り・プログラミングを主に行う、市行政の重要なポストである。これはサヴァリア交響楽団芸術監督に次ぐ私がハンガリーで得たポストであり、それを上回る権限と重責とを持つ役職である。聞くところによると市長の次、副市長クラスの待遇とか…! かつて日本人はもとより、ハンガリー人でもこのような一手を担うポストに就いた例はなく、本当に名誉なことである。しかし…その決定が成されるまでには紆余曲折!、思いもかけない複雑な事情・状況の絡み合いがあり、おそらく誰も想像もできないであろう事情があったのだ。ここで皆様だけに驚愕の事実をリポートしよう。

 

 ソルノクとの出会いは、2003年の秋にさかのぼる。コンクールで知り合ったハンガリーでの最初の友人がここの交響楽団の音楽監督であり、2003/04のシーズンの最初の定期演奏会に招いてくれたのだった。そして2006年1月の2度目の客演で大きな出来事が待っていた。

 

 この1月の演奏会はソルノク響の創立40周年を記念するもので、友好提携のある酒田フィルとの合同演奏会であったのだが、この演奏会の指揮依頼は不思議な縁による。実は初めてのソルノクでの演奏直後に山形県・酒田市で開かれた国民文化祭で指揮をした際にそのホスト・オーケストラである酒田フィルハーモニーと縁が出来たのだが、このオケはソルノク市と姉妹提携のある(酒田市の隣の)遊佐町との交流も含めてソルノク響とは長い縁があり、その両者との繋がりによってこの演奏会が開かれ、どちらのオケにも縁のあった私が指揮者に選ばれたという経緯があったのだ。演奏会は県庁舎の中にあるとてもよく響くホールで行われ、会場は二階席まで立錐の余地のないほどの盛況ぶりに加え、座席の1列目にはソルノク市長や市関係者そして日本大使まで招かれており、とても大掛かりな記念事業的な演奏会だった。メイン曲がベートーヴェンの「運命」交響曲のせいもあり終演後の聴衆の熱狂ぶりは大変なもので、演奏会後の市主催の打ち上げパーティでも市関係者からも大きな祝福を受けてはいたのだが…。

 

 「運命」の戸は翌日すぐに叩かれた! これからブダペストに戻ろうとする私のもとに現れたのは、前日のパーティでもお会いした副市長とその秘書官。演奏会の素晴らしかったことや、またぜひソルノク市に来てください!との言葉を通訳である秘書官を通して伝えられ、私はてっきり丁寧なご挨拶を受けたとしか思わなかったのだが…!? その副市長の帰った後に、私のマネージャーが信じられないというような表情を見せながら真顔になって説明してくれたことは…今後の音楽文化の発展と充実のために市に力を貸してくれるようまたぜひソルノク市に戻ってきて欲しい!という内容だったというのだ。これには驚いた! 秘書官を通じてのDiplomat(社交的な)ご挨拶などではなく、こうした市長の考えを伝えに来た、火急の伝達だったのだ。あまりの驚きにしばし言葉をなくし、自分のハンガリー語の語学能力のなさにも少々あきれたが。

 

 私が帰国してからも事はマネージャーを通じてどんどんと運び、市としては“市芸術監督”の肩書きで迎えたいとのメッセージを伝えてきた。そして3月にはソルノク響が日本を訪れて酒田フィルとの合同演奏会を酒田市、遊佐町、そして都内・池袋でも開くことになり、その際に私は彼らの元を訪れ同行していた副市長や文化担当官と再び会談を行った。話によると5月にはハンガリーでの国政選挙が開かれるので、その後の安定した時期を見計らって芸術監督の話を進め、手始めに現在改装中の芸術文化センター・ホールの杮落としを指揮して欲しいとの正式の招聘状を頂いた。これには胸が躍った! 願ってもない最初のチャンスの訪れである。と同時にいろんな思いが胸をよぎってきた。これまでサヴァリア響との期間があったとはいえ、実際には自分の思い通りの仕事ができなかったこと、その後これまで指揮者としての色んなポストを望みながら実現がなかったのに、自分の能力と人格を認めてくれて先方から!の強い要望で実現することになったこと。現在のハンガリーの政治・経済状況を考えると、自分が外国人としてハンガリーの一都市に招かれて自分の能力を生かし発揮できる場所にいられるのがどんなに素晴らしいかということ…。芸術監督の重責とその職務内容の大変なこと。そして今ある日本の仕事をどう整理してハンガリーに滞在するかということに、そして収入のこと…考え出せば不安な材料は本当にいっぱいなのだが、むしろ自分の目の前に開かれている道が大きく魅力的なことに、不安よりも期待が大きく体中を駆け巡る思いだった!

 

ところがところが…

 心配されていた5月の総選挙は現政権の圧勝に終わり、当然市の行政には変化があろう事もなくいよいよこれから進むものと期待していた……がである! 総選挙後の市当局からの連絡はぷっつりと途絶えてしまった。マネージャーを通じて伺いを出してもなかなか返事も滞り、いつも暫く待って欲しいとの連絡ばかり。焦り始めたのは私だけではなく、むしろ私の着任を誰よりも喜び期待しているソルノク響のオケのメンバーであり、積極的に当局に働きかけていたインスペクターや、このオケの創立指揮者だった。周囲の心配が募る中で、やがてその驚きの理由も明らかになった。

 

 政権を維持した与党は、総選挙後のもっとも大きな軸として10月に控えている統一地方選挙での足固めを計画していたが、あろうことかソルノクの選挙戦での市長候補を現職女性市長(私を気に入って芸術監督に迎え入れようとした人物)から全く別な人物に変更することを決定したのだった。ハンガリーでは全てがトップダウンの人事系統であり、例えば政権が変われば閣僚はもとより国営テレビの総裁に至るまでのポストが一変するシステムになっている。統一地方選挙においては、その候補者は現職での実績にも関わらず別な候補者に挿げ替えられることも珍しくないそうだ。…どおりで滞ったわけである。現市長との取り決めや人事が発動されたとしても、市長が変わればその部下たる役職も一変するのが当然だ。つまり芸術監督のポストも、新市長の裁量一つということになり、決めたくても決められないというのだ。

 

 ところが、ツキはあくまでもこちら側にあった。新しい市長候補氏は元々ソルノク市の劇場総裁も務めたことのある人物でありオーケストラとも付き合いの深い人で、もともとソルノク周辺で会社を経営していて、現在は文化副大臣を務めている人物だった。それに私の個人マネージャーとも知り合いであり、オケのインスペクターや創立指揮者たちの話によれば、彼が市長となった暁には芸術監督のポストに関しても前向きに取り組むとの内諾を得ているとのことだった。私が5月のドナウ交響楽団の定期演奏会(ブダペスト)を指揮した折にソルノクに足を伸ばした際には遅れてはいるが就任についての障害はなく、出来れば10月の市長選挙の前に現市長との間で何らかの仮契約や取り決めを行い新市長誕生時にスムーズに引き渡し事項として引き継がれ、すぐに契約の運びになるだろうというのが副市長の話だった。まぁ産みの苦しみがあってこそ、そのあとの喜びも大きいか?!などとこのときは楽観視していたが…。

 

それも無理もない話である。市の中心広場から歩いて15分ほどの距離にティサという河があるが、その辺りは高層マンションも含めた市でも有数な住宅街である。何とそこに、市は私が就任したあかつきには住んでもらえるようにと、既にマンションの一室を副市長自ら視察して借り上げているというのだ! マネージャーやオーケストラのインスペクターを伴って私が案内された部屋は、何と部屋面積が100㎡もあるかという一室で、リビングを含めた部屋数が4つに大きなバス、トイレ及び台所が付きとても静かな角部屋だった。いよいよ現実味!を帯びてきたソルノクでの生活を思わず想像して、私の頬は緩みっぱなしだった。そして今後のここで腰を落ち着けての音楽活動に思いを馳せずにはいられなかった。<下画像はソルノクの住居候補?>

ここでこの市の文化機構について詳しくお話をしよう。ソルノクではソルノク交響楽団以外に、世界的に有名なある室内管弦楽団への多額の資金援助を行っており、それ以外にプロ合唱団であるバルトーク室内合唱団(女声プロ)、コダーイ合唱団(混声アマ)、ティサ民族舞踊団などの団体があり、スィグリゲティ劇場、芸術文化ホールなどの施設も属しているのだ。ところが世界的にも有名なこの室内管弦楽団は本拠地をブダペストにおいており、また独自の基金も持っているので、ソルノク市の多額の援助はもちろんソルノク市がスポンサーであることが一切表に出ていないのである。市にとってはソルノクの名前も出ないこの室内オケに対して多額の助成金を出すのはメリットが薄く、当局はゆくゆく助成を取りやめたいと考えていた。また劇場の現総裁の任期が’07年8月までで切れるために文化面での改革を行いやすく、すなわち芸術監督のポスト設立には格好の機会であり市の財政面からも必然性・可能性も十分あるものだったのだ。  一方、10月の総選挙までで任期の切れる現市長にも最後の大きな仕事が残っていた。改装を続けている文化芸術センターを何としてでも自分の任期中に完成させ、自分の最後の功績として名を残したいと考えていたのである。改装のために約2億円かかったと聞くが、その政府助成金を引き出す予算折衝を新市長候補が文化副大臣として自ら行った事実もあってか、彼女には並々ならぬ“女の意地”もあったのであろう。かくして工事は急ピッチで進み、予定されていた9月1日の杮落としには何とか完成の陽の目を見たのである。ここは初めて私がソルノク響を指揮したホールのある場所であったが、そのホールの音響は悪く、また外観も旧共産圏の遺物のような施設であった。新しく完成したそれはガラス張りの素晴らしいもので、大ホールは内装が全て木でできた音響のよくとても落ち着いた雰囲気のものにと変わっていた。名前も市出身の芸術功労者の名前にちなみ、「アバ・ノヴァーク芸術文化センター」という名が付けられた。 その杮落とし演奏会を、私はソルノク響と共に行った。遊佐町の篤志家からのピアノの寄贈もあって話題を呼び、ドイツ、イギリス、イタリア、ポーランド、イスラエルなどの友好都市からのゲストや多くのマスコミ関係者たちを前に大いに張り切り、メイン曲のメンデルスゾーン作曲「イタリア」交響曲は会心の出来で、大きな拍手と声援を受けて大成功を収めたのだった。終演後の関係者によるパーティではオケのレヴェルが大変に上がったのが指揮者の功績と称えられ、何とその場で気を良くした副市長の口から私を市の芸術レヴェル向上のために招きたいとの公式発言もされたのである。当然翌日の新聞各紙に、私の芸術監督就任についての記事が載ることとなった。

文化センターの開館行事が予想以上にうまくいき、そして杮落とし演奏がいたく気に入ったのであろう…その翌日に市長は私やオケの中心メンバーを昼食に招いてくれたのだが、その席で彼女は、10月の市長選まで待つことなく昨日の演奏会のあった日付をもって私をこの文化センターの音楽監督に任命したいと申し出てきたのだ。そして手始めに今後のセンターでの音楽的コンセプト…ホールで行われる演奏や行事についての計画…を私が考えて、3日後にそれを提示した上で具体的な契約についての話し合いができるよう取り掛かって欲しいと切り出してきた。1月の演奏会翌日の申し出に引き続いて何とも性急な話の好きな市長であるが(苦笑)、それまでの音楽監督就任が滞っていたストレスもあって、とにかくまずは前に進めたいとの思いから早速このポストをまず引き受けることにし、文化センターでの杮落とし公演2度目の本番後に半ば徹夜をしてまで英文原稿を作り、市長との約束の3日後までに準備を終えたのである。ところが…結論を述べると、またもその苦労は報われることはなかった。市長との約束の時間に市庁舎を訪れると、確かに廊下で市長を見かけて声を掛けられたというのに、…通された部屋に市長は待てど暮らせど訪れず、代わりにやってきたのは例の副市長と経理課の責任者だった。先方の求めに応じてこちらが熱く語るコンセプトや契約条件を表情も変えず一通り聞いた後の副市長からの答えは意外なほどあっさりしたもので、やはり市長選が終わらないと具体的な契約は進められないし、また契約予算の執行のためのコンセンサスを各課に取り付けねばならないため、英語で提出した文書のハンガリー語訳も含めあと2週間待って欲しいとの返事だった。これにはさすがに閉口した。あれだけ急いで就任を促した市長の言は一体何だったのか? 2週間後に一体どんな回答が期待できるのか? そのまた1週間後に行われる市長選の後この話はどうなるのか?私の中にはこれまで散々待たされたイライラと不信が頂点に達しそして同時に大きな失望感だけが残った。

 

政治と金と思惑に巻き込まれて…

失意のうちにブダペストに戻った翌日、ところが全ての謎が解明されることになった。マネージャーが私の宿泊先のホテルにやってきて伝えてくれたその理由…オケのインスペクターや市の文化担当課長から伝えられたというその話は、全く予想だにしないショッキングな内容だったのだ。

 

杮落としの公演は、従来のソルノク響の演奏を知る聴衆の想像をはるかに超える名演であり、その演奏を聴いた“ある人物”が慌ててその演奏の素晴らしさや指揮者の手腕についてブダペストへ詳しく電話で伝えたという…その伝えられた相手とは誰あろう、市の助成する室内管弦楽団の音楽監督であった。その電話の内容は、市が日本人指揮者を芸術監督として登用しようとしていること、そしてそれを期にこの室内管への助成を打ち切ろうとする動きがあること…それを電話で告げられ助成金の減収に大いに危機感を抱いたこの人物=音楽監督は、すぐにある人物に電話を掛けた…その人物こそが何と!あの次期市長候補氏だったというのである。実はこの候補氏、市の芸術財政の建て直しのためにソルノク響関係者には室内管への助成の打ち切りを検討すると約束しておきながら、実は裏でこの室内管との古くからの付き合いがあって、これまで国の助成金獲得の便宜を図った見返りに同団からのキックバックも受けていた人物だったのである。そのためいち早く現市長の動きを封じる上の力を借り圧力を掛けてきたらしいのだ。つまり現市長の二転三転した態度の背後には、大きな政治的な圧力があったというのであった。折しも…その状況を知ったオケに近しい市当局者からインスペクターへの内々の連絡があったこの日、この人物が市長就任に並々ならぬ意欲を見せたのは、就任後に自分の経営する企業に有利な働きかけを行うためだとのスキャンダラスな新聞記事までもが出たのであった!

 

この時いみじくもマネージャーが話した言葉…一日本人指揮者があまりにも有能で才能溢れる人物だったため、そのたった一人の存在が政治と金とそれにまつわる陰謀とを曝け出させるきっかけとなった…そう聞いて私は開いた口が塞がらない思いだった。ただ私はこの地での純粋な音楽活動しか考えていなかったのに! 利権や陰謀に関わるつもりなどこれっぽっちもなかったのに! …かくして私は政治と金の渦に巻き込まれてしまったのである。また統一地方選挙直前の折りも折り、ハンガリー国首相であるジュルチャーニ氏が側近に話した「国民に嘘をついていた」発言がマスコミにリークされ大波乱を巻き起こし、野党を中心とするメンバーの提唱によって大規模な反政府キャンペーンや首相退陣を求める数万人規模のデモなどが連日続き、統一地方選挙では与党の推薦候補が軒並み落選して惨敗を喫し、ソルノクでも対立候補が当選を果たすことになった。その票差は百数十票差だったそうだ。もしもソルノク響メンバーと関係者が支援キャンペーンでも行っていれば、簡単にひっくり返せるくらいの票差なのに…。

 

そして今

かくして芸術監督就任の話は、前市長から新市長への引継ぎ事項として受け渡しされたとは聞いているが、その後大きな進展はない。引き続き文化広報担当官やアバ・ノヴァーク芸術文化センター館長らが実現に向けた働きかけを市庁舎内で行っているとは聞いたが、推進派だった副市長も市長交代の折に辞任したらしいし、かといって実現の可能性が全く消えたという話が出ているわけでもないらしく、こちらとしてはただただ待つのみであった。いったいこの先どうなるのかが皆目見当が付かないままである。しかしオケのメンバーたちの動きは活発である。ソルノク響はメンバー全員一致の評決で私をしかるべきポストに迎えることに決定したそうだし、オケを支援する地元の有力起業家たちは基金を募り、私の就任のためのスポンサー資金を既に調達したそうである。全く持って信じられないような嬉しい話である。この先、市の芸術監督の話が実現されるか否かの決定がなされようとも、指揮者としての新しい活動の場を得てこれから更に努力・奮闘していきたい気持ちでいっぱいになったのは言うまでもない。(写真はオケのメンバー及びオケ支援基金のメンバー)


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