ハンガリー国立歌劇場・デビュー公演-その4
プッチーニ作曲/歌劇「ラ・ボエーム」(全4幕)1999年10月12・15日
出演 ロドルフォ/フェケテ・アッティラ (FEKETE Attila) ミミ/シュメギ・エステル (SÜMEGI Ester) マルチェッロ/ブシャ・タマーシュ (BUSA Tamás) ムゼッタ/フュレプ・ジュジャンナ (FÜLÖP Zsuzannna) ショナール/コヴァーチ・パール (KOVÁCS Pál) コルリーネ/キラーイ・ミクローシュ (KIRÁLY Miklós) ベノア/スィラージィ・ベーラ (SZILÁGYI Béla) アルチンドロ/ロージィ=ビーロー・ヤーノシュ (LÓZSY-BÍRÓ János) パルピニョール/チキ・ガーボール (CSIKI Gábor) その他の皆さん |
演奏 ハンガリー国立歌劇場管弦楽団 ハンガリー国立歌劇場合唱団 及び児童合唱団 |
アンドラーシュ通りはすっかり夜のとばりが下り、そこに面したオペラハウスはもうすっかり開演を待つばかりのライトアップされた姿を見せていた。既に歌劇場を挟んだ路地や入り口前の駐車スペースにはもうびっしりと車がひしめいていて、劇場前にはもう人だかりが出来ていた。このお客さんたちは僕の今晩の公演を聴きに来てくれているのだ・・・そう考えると、感慨がひとしお深くなった。そうだ、これから僕はここハンガリー国立歌劇場で「ラ・ボエーム」振ってデビューするのだ。4年前にオペレッタ劇場に「メリー・ウィドウ」を指揮してデビューしたときに似たあの興奮が蘇ってきた。
楽屋口に入るともう既に顔見知りになった関係者やオケのメンバーが気さくに声をかけてくれる。入り口で楽屋の鍵をもらって中へさらに進むとエレベーターがあった。一緒に乗り込んだおばさんが手にしていたのは、今日のキャスティングが書かれたネーム・ボード(*1)である。おばさんは僕の顔をチラと見ると、そのボードの中からひとつを抜き出した。そこにはまさに僕の名前<IZAKI Masahiro>がある。「あんたの名前はこれが姓かね?」 にっこり笑って僕がうなずくとまたおばさんはしげしげとそのボードを見つめ直し始めた。ハンガリー語と日本語の共通点のひとつは、名前の表記が姓・名の順で日本と同じなのである。
そのおばさんと入れ替わりにエレベーターに乗り込んできたのは数人の児童合唱・・・と言ってももう中学生ぐらいの女の子たちだ。何やら一生懸命しゃべっているが、僕のヴォキャブラリーではとてもついていけない。そのとき横に乗っていたマネージャーがくすくす笑う。エレベーターを降りたところで訳を尋ねてみた。再び笑いながら彼女曰く、「”今日の指揮者誰だか知ってる?― うぅ~ん知らないわ!”って言ってたのよ」そう聞いて、ますます自分の立場を痛感した。そうこうしているうちに楽屋が見つかった。この歌劇場の常任指揮者が使っている部屋である。
再び不安がよぎりながらスコアを確認しているとドアをノックする音がした。マネージャーが対応してくれて運ばれてきたものは立派なフラワー・デコレーションだった。今日のデビューを祝って知り合いが送ってくれたものだった。真紅のバラのデコレーションには公演の成功を願うメッセージが添えられていて、とても勇気付けられる思いだった。
開演10分前になっても誰も呼びに来ない・・・ポルティエが来る手筈になっていたのだが! 意を決して部屋を出る。今度は階段を一歩一歩踏みしめながら降りていく。緊張は無い、だがどうすればオーケストラがついて来てくれるか、どうすれば歌手とのコンタクトが取れるか?頭の中はその事でいっぱいであった。ピットの入り口に行くとオケのインスペクターが微笑みかけてきてくれた。「すごいね、今日はフルハウスで開演が延びるねぇ。」ドアの隙間からのぞき見ると開演時間までもうあとわずかしかないのに通路にたくさんのお客さんがひしめいている。それもどの階も。席横一列に対する縦の通路が少ないために、既に着席したお客さんは新たに人が来るたびに立ち座りを繰り返せねばならない。ヨーロッパの劇場らしい光景だ。やがて息せき切ってくだんのポルティエがやってきた。どうやら僕の姿を探していたらしい。10分近く開演時間からたった後、場内の明かりが静かに消えていった。「それではマエストロ、どうぞ・・・!」 いよいよ初日の開演である。
落ち着いた気持ちでピットへと近づいていった。オケのメンバーがにこやかに、しかしどことなく警戒を緩めていない面持ち?!で迎えてくれる。スポットライトが僕の姿を追う、と同時に会場内から拍手が起こる。オケのメンバーが立ち上がり、お客様にご挨拶。ふとよぎる不安・・・!それはまたしても譜面台であった。今日午後に一度訪れて確認していた譜面台は古いもので、しかも高さを上げたために支柱の支えが弱くてポルティエから「台に手をついちゃだめだ。倒れてしまうぞ!」と言われていた。しかし目の前にあるのは新しいもので、・・・しかもわずかにベストポジションから低い高さであった。親切にも?!別なものに変えてくれたのだった。・・・ええい、もうどうにでもなれという心境・・・、そんなことよりも心は既に「ボエーム」の世界に飛んでいた。
第一幕はもう夢中だった。あれほど重いと思っていたオケも、さすがに今日は何とかついて来てくれて、音楽の運びがスムーズだ。舞台上はマルチェッロ、ロドルフォに加え、ショナール、コルリーネと数が増えていきアンサンブルを始める。そして大家・ベノアも登場。このあたりから難しさも増すが、歌のやり取りがどうも“段取り芝居“っぽく感じられて仕方が無い。リハよりもテンポを落としてじっくり歌わせると、また違った面白みも出てきた。そしてミミの登場・・・。公演全体を取り仕切る指揮者の役目の難しさのひとつに、舞台上で行われているオペラの運びと、難しいナンバーを歌い終えた歌手へのお客さんの拍手との時間のバランスを図ることがある。つまりアリアを歌い終えた歌手に対する賞賛の拍手が長すぎるとオペラのストーリーの運びや流れがそこで寸断されてしまう。しかし歌手への拍手をさえぎってすぐに始めてしまうと、お客さんの興奮を冷ましてしまう。それに難曲を歌い終えた後の歌手の立場からすると、ここで少しでも休んで次の準備にしたい時間でもある。こればっかりは理屈ではない。数多くの経験で指揮者は背中でお客さんの反応や雰囲気を感じ取らねばならない。
我に返ると第1幕後のカーテン・コールが始まった・・・夢中な時間が終わるとそんな気分であった。ふと安堵すると、オケの面々はそれぞれ同僚と話し始めたり、楽器の手入れをしたり・・・、中には新聞を読み始めるメンバーもいて、ピット内にほんの僅かな緊張の緩む時間が来た。が次の第2幕はいつ始まるか分からない。譜面台上のランプは赤のまま・・・!やがて事情のわからないお客さんが少しずつ騒々しくなってくる。・・・約7~8分経っただろうか?何の前触れも無くランプは緑に変わった。談笑していた団員の顔から笑う表情が少しずつ消えていった。
第2幕はトランペットのファンファーレから始まる。景気のいい音楽と共に幕が上がるとそこは人々でにぎわうカルティエ・ラタンの雑踏・・・・・
息を呑んだ! 合唱団が多すぎていったいどのパートが何を歌っているかさっぱりわからない。いくつかのパート(買い物客、学生、売り子たちetc.)に別れているのだがもうごった返し状態で(当たり前だ、暮れの繁華街が舞台である!)、アインザッツ(歌い出しの合図)をどこに出してももはや空しい状態である。オケの音楽からどんどん合唱が遅れていく。それでも合唱はいい。黙っていても必ず歌ってくれるわけだから。でもまず最初に歌いだすマルチェッロはどこだ?!振りながら舞台を見渡すがどこにも見当たらない。やがてその場所に差し掛かると、合唱団の中から声がする!彼もまた、あまりの合唱団の人込み?に舞台の前に出て来れなかったのだ!!
やがて児童合唱と女声合唱が盛り上がると、おもちゃ売りのパルピニョールが登場する。ここではスコア上にフェルマータ(演奏中の楽器が音を伸ばしたままになる)の指示があり、任意のテンポでパルピニョール役の歌手が歌うことになっている。しかしご多分に漏れず、この歌手とも一度も稽古してないばかりか、会ってもいない。つまり出が遅れるとオーケストラは伸ばしっぱなしになってしまい、息がもたないのだ!そういう難所がこのオペラにも何ヶ所も出てくる。
もうひとつの難所は予想不可能の演出上の問題だ。スコアには歌詞(セリフ)の他にト書きと呼ばれる登場人物の動きや表情を明記した記述がある。しかし演出(解釈)によってはその行動の始まる場所が変わっていたり、行動の中身自体が変わっている事もある。それらは舞台上で起こっていることなので、演奏しているオーケストラは知る由も無い。ただ指揮者の指示に合わせて演奏しているのである。舞台上で何か予想できないことが起こったら、指揮者はそれに合わせて例えばテンポを変えたり間を取らねばならない。
例えばこの2幕のムゼッタの登場シーンもそうである。元恋人のマルチェッロの気を引こうとパトロンのアルチンドロに無理難題を吹っかけて、舞台狭しとハチャメチャに動き回る演出である。動きの範囲が広くしかもめまぐるしいので時には指揮者の棒が全く見えない状態で歌われる事がある。したがってその動きと音楽のズレをなくし、歌手の動きやすいよう、歌いやすいように指揮者は微妙に変化をつけるのである。この時はムゼッタ役のジュジャンナがその豊満な?肉体を駆使してアルチンドロと会話するのだが、わずかに出が遅れる気がした。そこでフレーズの最後を一旦きっちり終わらせてから次に進むやり方を取った。この時のオーケストラの反応はすばらしかった。一度そのやり方でうまくいくと、次からは特に大きく指示しなくても同じようにやってくれる。シンフォーニー・オーケストラ(いわゆる管弦楽曲ばかりをやっているオケという意味)でない、歌劇場のオーケストラという“歌慣れ”したオーケストラならではな気がした。そしてこのあたりからオーケストラの鳴りがとてもよくなったように思った。
2幕の後半はバンダ(舞台上で演奏されるブラス楽団)が登場する。演奏しているオケのメンバーとは別の、私が開演前ピット袖に待機している時に楽器を抱えてどやどやと入ってきた連中である。ここも難所のひとつだ・・・。
カフェ・モミュスでの飲み食いの勘定の高さに一同が驚く音楽に重なるように舞台奥から軍楽隊がやってくる。当然ながら指揮者の棒の動きは舞台奥には届かないので、テレビモニターを通じて伝えられる。(もちろんここもリハをやっていない。)目の前にあるスコアと、オケのサウンド、そして舞台上のキャストや合唱団の動きが頼りだ。だんだんバンダが近づいてくる・・・そしてそれに伴ってピット内のオケのテンポより遅れ始めた。つまり彼らはモニターの見えない位置に来たのだ。しかしピットのオケの音は(そこにオケの返し音~オケの音をモニターするスピーカーでもない限り!)彼らには聞こえず、テンポにズレが生じ始める。しかしオーケストラも自分たちでピット内演奏をしているので、そのズレを十分聞くことができない。そしてやっと舞台中央に彼らが行進して来て、やっとテンポが合うのである。これには参った!他に方法はないのだろうか?冷や汗をかいて第2幕は終了した!
休憩後の第3幕、舞台は夜明け前のアンフェール門・・・。短いTutti(全合奏)の2つの和音が鳴ると幕が静かに上がって行く・・・そして・・・・、そこには何もなかった(笑)?!つまり暗すぎて何も見えないのである。通りすがりの門番や女たちの声がオケの伴奏に合わせて歌われる。しかし合図を出そうにもどこに彼らがいるかすら分からない。どうやら彼らからはこちらが見えているらしい?声が聞こえて初めて歌い手がどこにいるかがわかった指揮者であった・・・。でももうこの頃になるとさすがにいろんなことが起きても動じなくなっていた(いい事なんだろうか?)。そう言えばロドルフォとマルチェッロの背後で二人の会話を聞くミミの姿もまったく見えなかったっけ?
この幕のクライマックス、別れるミミとロドルフォの傍らで喧嘩を繰り返すムゼッタとマルチェッロの四重唱、ジュネーヴのコンクールのために勉強したもっとも好きな場所である。この演奏をして始めてオーケストラにはっきりと自分の音楽を伝えることができ、それにオケが応えてくれたような気がする。演奏というのは一回でも多いほうが、やはり経験として身になっているのである。
第4幕は難所の連続! ロドルフォ、マルチェッロ、ショナール、コルリーネの4人がふざけていろんなダンスを始める場面の舞台の動きとテンポ、一転して部屋に担ぎ込まれた瀕死のミミとロドルフォのやり取り、そして回復を願うムゼッタのレチタチーヴォ(オペラ中でしゃべるように歌われる部分)・・・まさにオケと歌手と駆け引きをしているようだった。・・・そして公演第1日目は終わった
<ムゼッタ役のフュレプ・ジュジャンナ/公演のパンフレットより>
<ミミ役のシュメギ・エステル/公演のパンフレットより>
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*1 劇場の入り口(ロビー)には、その日の公演のキャストや指揮者、スタッフ名が書かれたネームボードを差し込む一覧表が掲げてあり、公演名や配役名などと共に毎回そのネームボードは差し替えられるようになっている。